2009年07月03日

政府が造幣局や砲兵工廠を置き

明治時代から昭和時代初期は、政府が造幣局や砲兵工廠を置き、金属工業や繊維産業を中心に商社・卸売・新聞など様々な商工業が発展し「東洋一の商工地」と称され、多くの企業が勃興した。メセナが活発に行われた「阪神間モダニズム」と呼ばれた時代には、六大都市の1つとして日本の中心の1つとなった。特に関東大震災後には、東京からの移住者も加わって大阪市は日本最大の都市となり、世界でも第6位となった。そのため、「大大阪」と称されたこともあった。しかし、昭和10年代より政府が戦時統制をしき、文化・芸術・教育・産業その他あらゆる分野の中枢を東京に集めたことで、相対的地位は低下していった。

1868年 - 明治新政府が大阪府を置き大坂市街地を管轄させる。川口に外国人居留地設置(川口居留地)。
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1873年 - 岩崎弥太郎が三菱商会(後の三菱財閥)を西区堀江に設立。
1879年 - 大坂市街地を北区、西区、東区、南区に分割し郡区町村編制法施行。
1889年 - 大阪府下4区を大阪市とし市制施行、特例により大阪府知事が市長を兼任する。
1898年 - 特例が廃止され、大阪市庁が府庁から独立する。
1903年 - 第五回内国勧業博覧会開催、シンボルタワーである通天閣(初代)竣工。日本初の市営電車(大阪市電)が部分開業。
1913年 - 中央公会堂が竣工。
1921年 - 住友合資会社(住友財閥)が設立される。
1929年 - 世界初のターミナル百貨店、阪急百貨店が梅田駅に開業。
1931年 - 大坂城天守閣再建。
1933年 - 大阪市営地下鉄が部分開業(梅田-心斎橋間、日本初の公営地下鉄)。
1945年 - 大阪大空襲。

2009年06月13日

可逆反応(かぎゃくはんのう)とは

可逆反応(かぎゃくはんのう)とは、化学反応のうち、始原系(原料)から生成系(生成物)への反応(正反応)と、反対に生成系から始原系に戻る反応(逆反応またはレトロ反応)がともに起こる反応のことである。ある系においてそれらの正、逆反応しか起こらなければ、その系は最終的に一定量の基質と生成物を含む平衡状態に落ち着く。その場合、正反応と逆反応の速度定数の比が平衡定数となる。

可逆反応とは反対に、正反応のみが起こり逆反応が起こらない反応を、不可逆反応と呼ぶ。

可逆反応は始原系と生成系のエネルギー差が小さく、活性化エネルギーが低い場合に起こる。可逆反応を化学反応式で表すときは、始原系と生成系の間に右向きの片矢印と左向きの片矢印を上下に重ねて書く。例として、アンモニアとアンモニウムイオンとの間の酸塩基反応を示す。
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ある系が可逆反応により一定の平衡状態となってしまうと、基質がいつまでも残ってしまう状況に陥ることがある。それを解決して生成物を効率良く得るために、生成物を系外に除去する工夫をしたり、複数の基質のうちの一方を溶媒などとして大過剰量で用いたりすることで、平衡を生成物側に偏らせる手法がとられる。

ある反応で複数の生成物が得られる可能性があり、その生成比が、生成物、反応中間体、基質のいずれか、あるいはいくつかを含む可逆反応の平衡定数で決定される場合、そのような選択性を熱力学的支配による選択性、という。

可逆反応の例 [編集]
酸塩基反応
クロム酸イオンの反応
2CrO42- + H+ ⇔ Cr2O72- + OH-
フィッシャーエステル合成反応
酸触媒によるカルボニル化合物のアセタール化

2009年06月09日

看護師(かんごし)とは、医療などの場において

看護師(かんごし)とは、医療などの場において以下の事柄を行う医療従事者の呼称である。

医師等が患者を診療する際の補助
病気や障害を持つ人々の日常生活における援助
疾病の予防や健康の維持増進を目的とした教育
女性を看護婦(かんごふ)、男性を看護士(かんごし)として区別することもある。(日本国においては、2002年3月以前はこれが法律上の名称でもあった

現代では、看護師の業務を行うためには、多くの国でその国が定めた看護専門学校や看護大学等の看護師養成課程における基礎看護教育を受けた上で国家試験等の資格試験に合格し、看護師免許を有している必要がある。

各国の看護師協会(NNAs:National Nurse's Association)からなる国際看護師協会(ICN:International Council of Nurses)は、「ICN看護師の倫理綱領」の中で看護師には4つの基本的責任があるとし、健康を増進し、疾病を予防し、健康を回復し、苦痛を緩和することであるとしている。
ケア 税理士 結婚 リフレ 仏具 アロマ ショップ 資格 衣料 予備校 中国四国 美容整形 予約 審美歯科 弁護士 老人 開業 クレジット 美容整形 教材 成人病 アウトドア 専門学校 宿泊施設 セミナー 地域情報 ネイル 建売 しわ取り 信託 出会い 成人病 SOHO タロット 美容整形 老人 成人病 通信販売 プリスクール 家庭教師 家庭教師 産業 美容整形 老人 審美歯科 アルバイト 実益 成人病 生活雑貨 多汗症

日本における概要 [編集]
日本において看護師は、法的には「厚生労働大臣の免許を受けて、傷病者若しくはじよく婦(褥婦(じょくふ)/出産後の女性)に対する療養上の世話、又は診療の補助を行うことを業とする者」と保健師助産師看護師法(略称「保助看法」第5条)に定められている。

また日本には准看護師(じゅんかんごし)の免許があり、法・制度的にみた看護師との違いとしては、准看護師は知事免許であり国家免許ではないこと、看護業務を医師、歯科医師または看護師の指示を受けて行なう(保助看法第6条)ことがあるが、それ以外の職務内容等については特に看護師との違いや規制は設けられていない。そのため准看護師が看護師とほぼ同様に看護業務を行っていながら、給与等に違いが生じているという実態が知られている。

同法第31条において、医師、歯科医師、看護師・准看護師以外の者が看護を行うことが禁止(業務独占)されており、同法第42条の3では「看護師」や紛らわしい名称を用いることが禁止されている。また同法第42条の2では「正当な理由がなく、その業務上知り得た人の秘密を漏らしてはならない。」と看護師への守秘義務が課せられている。

看護師の養成教育(看護教育)は、これまでは看護専門学校で中心的に行われてきたが、近年は医療の高度化や看護職の地位の向上などを背景に4年制の看護学部や医学部保健学科が増えてきており、2007年4月現在で看護師養成機関の定員の32.5%は4年制大学での教育を受けており、[1]、今後はさらに大学を卒業した看護師が増えるものと考えられる。

看護教育を受けた後、看護師国家試験に合格した看護師は、病院などの医療機関に勤務することが多く、こうした実地のキャリアと継続的な卒後教育を経て、認定看護師、専門看護師といった専門分野に関する認定を受け看護の提供を行う場合や、保健師、助産師など関連資格を取得する場合、看護管理者や訪問看護師、看護教員、看護研究者など職務内容や場を変更する場合といった様々な様相で看護に関わってゆくことが多い。

2009年04月25日

黒海沿岸を譲り受けた

1768年の露土戦争によって、「東方問題」はヨーロッパ政治において重要性を帯びることとなった。戦後、1774年にキュチュク・カイナルジ条約が結ばれ、ロシアはオスマン帝国から黒海沿岸を譲り受けた。さらにこの条約で、ロシアがオスマン帝国支配下の正教徒の保護権を認められたことから、以後ロシアは主にこれを口実としてオスマン帝国への干渉を強めるようになった。
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1787年にロシアとオスマン帝国の間で再び戦端が開かれると(1787年露土戦争)、同盟に基づいてオーストリアのヨーゼフ2世も参戦した。この際両国の間でオスマン帝国領を分割する約束がされた。これはイギリス・フランス・プロイセンなどに警戒を抱かせたが、1791年にオーストリアは戦争から手を引かざるを得なくなり、結果的に1792年のヤシ条約ではロシアが黒海支配を大きく進めることとなった。

19世紀前半にはオスマン帝国をめぐる「東方問題」に関する列強の位置は明確になった。ロシアは最も直接的な影響力を持った。ロシアはボスポラス・ダーダネルス両海峡およびコンスタンティノープルの港を確保して、黒海を支配していた。さらにロシアは、地中海進出の足がかりを得ることに関心があり、オスマン帝国海域での商船や軍艦の航行権を列強に先んじて確保し優位に立つことを望んでいた。また相対的に重要性は落ちるものの、オスマン帝国内の正教徒をロシアの管理下に置きたいと望んでいた。このようなロシアの立場に対して、オーストリアが最も直接的に対立した。オーストリアにとって、弱体化したオスマン帝国に比べると、ドナウ川沿いに進出しようとするロシアの脅威のほうがはるかに重大であった。さらにバルカン諸民族が活発になることは、オーストリア自身の抱える民族問題に飛び火し、自国内で民族の独立運動が激化につながると危惧されたため、オスマン帝国の保全を考えるようになった。イギリスは、インドへの交通路を確保するために、ロシアがボスポラス海峡を支配して東地中海に進出するのを警戒し、さらにオスマン帝国の崩壊によってヨーロッパの勢力均衡が崩れる懸念をもっていたために、オーストリアに近い立場にあった。

2009年04月08日

猫 (フォークグループ)

猫(ねこ)は、1970年代に活躍した日本のフォークグループである。バンド名は、ビートルズ、ザ・タイガース、ザ・スパイダースなど当時のバンドに多かった「動物・生き物系」を付けようとしたが決まらず、「猫でも犬でもいいだろ」から「猫」に決まったという。代表曲は「雪」「地下鉄にのって」「各駅停車」「僕のエピローグ」など。

当時の音楽誌が、このバンドを紹介するのに「ニューミュージック」と紹介したのがニューミュージックの語源との説がある。

メンバー [編集]
常富喜雄(つねとみ・のぶお、1948年7月7日-) ボーカル・ギター
内山修(うちやま・おさむ、1948年12月12日-) ボーカル・ギター・ベース・パーカッション
田口清(たぐち・きよし、1948年12月1日-1991年7月17日) メインボーカル・ギター
石山恵三(いしやま・けいぞう、1952年4月13日-) ボーカル・ベース
大久保一久(おおくぼ・かずひさ、1950年7月22日-)- 解散直前に脱退し、伊勢正三と「風」を結成
御守孝明(おんもり・たかあき、1950年4月11日-)- わずかな期間在籍。1973年に脱退し「メロディメーカー」を結成。現在、神戸市在住。
西木栄二(にしき・えいじ)- わずかな期間在籍。

来歴 [編集]
1971年10月、早稲田大学のカレッジフォークグループ「ザ・リガニーズ」のメンバーだった常富喜雄、内山修と、「ジ・アマリーズ」のボーカルだった田口清によって結成される。
同じ早大出身の後藤由多加が吉田拓郎らと設立したユイ音楽工房に誘われ参加。拓郎のバックバンドを1年半務める。
1972年3月9日、東芝EMIより「人生なんてそんなものさ」でデビュー。その後、石山恵三らが加入。CBSソニーに移籍し、拓郎作曲の「雪」「地下鉄にのって」などがヒット。
1975年、アルバム『エピローグ』を最後に解散。
1976年、常富が作曲したあおい輝彦の「あなただけを」が大ヒット。
1991年、メインボーカルだった田口清が自宅近くで自転車に子供を乗せ坂道を下っている途中、何かにつまづいて転倒。子供をかばって無理な姿勢のまま倒れ込み、その結果頭を強く打ち、42歳の若さで死去。
2000年、南こうせつの番組「フォーク大集合」(NHK-BS2)にて一夜限りの再結成。常富、内山、石山、大久保、御守の5人が集まり演奏。
2004年秋、田口清の十三回忌法要で、常富・内山・石山が集まったことがきっかけで、約30年の沈黙を破り再結成。
2008年3月、オリジナルアルバム「猫5」(ネコ・ファイブ)を発売。ライブを中心に活動中。
mf247「ウタオウタオウ」プロジェクト

ぺぱーみ メンメン ソング バンブ チミン シーザー キックサニ カエデ キンロバイ ナンバー マリンバ ディー ハードコア トース ジョーク タンブラ ナイアガ ラック セリン ブラック セルラ オルガ マスト ピタヤ ビンテー センシ ワサビ えんおう キセル ニューマ ふきのとう ブルーマ シェイ プランター 暮し百科 ザック エンド マート ニューロン ダーシズン 雪しぐれ ガボン ぴってろ ミケー デソ プデ レーナー レット ピーコック トレーサ

2009年03月24日

電動車はすべて新製のボギー車

1923年に実施された昇圧に伴い、電動車はすべて新製のボギー車に置き換えられ、従来の600V用電動車は、ボギー車3両(ホ1 - 3)が電装解除のうえ付随車として引き続き使用された以外は、使用が停止された。

1926年の第2次大改番以前は、電動車、付随車それぞれに1から付番されていたが、同改番以降は電動客車は「デ」、附随客車は「サ」を形式に冠し、形式ごとに番号を飛ばして付番するようになった。また、車体への標記は、等級用途等の記号を付加した「デハ」、「サハユニフ」等とされている。

電動車はすべて院電タイプの車体を持つ両運転台形、付随車はすべて制御回路の引き通しを設けず、電動車の牽引によって運行される「後付付随車」と呼ばれるもので、鉄道省の規程では電車に付されることのない緩急車を表す記号「フ」が記号の末尾に加えられている。

電動客車 [編集]

デ100形・デ200形 [編集]
1923年の1200V昇圧に伴って用意された両運転台のボギー式電動車で、デ100形3両(デハ100 - 102)、デ200形5両(デハ200 - 204)が汽車製造東京支店で製造された。製造当初は前記の順番で1 - 3・4 - 8と称したが、1926年の第2次大改番により2形式に区分された。

車体は長さ16m級の木製で片側3か所に客用扉を設けており、屋根はモニター形である。デ100形とデ200形の車体は同一で、台車や電動機といった走行機器関係が異なるのみである。側窓配置は1D141D141D1、前面は貫通式となっている。車体の最大寸法は、長さ15,875mm×幅2,642mm×高さ4,147mmで、座席はロングシート、定員は84人(うち座席52人)である。制御装置はいずれも非自動間接制御(HL)である。

走行機器に関しては、デ100形の電動機が78.3kW×4基、歯車比が1:2.65、台車が鉄道省TR14(後のDT10)同等品であったのに対し、デ200形は、電動機出力は74.6kW×4基、歯車比が1:4.56、台車がブリル27MCB-2である点が異なっていた。

買収後は、伊那松島に配属のまま架線電圧1200Vの飯田線天竜峡以北で使用されたが、同区間の1500V昇圧に伴い、両形式の全車が1951年に富山港線へ移った。

この時点で、101, 102は片運転台化され、100は両運転台のまま電装解除のうえ制御車化されており、1953年6月の車両形式称号規程改正の際には、101, 102がモハ1900形(1900, 1902)、100がクハ5910形(5910)に改められた。その後、両形式とも1954年(昭和29年)3月に廃車され、いずれも私鉄に払下げられた。

一方デ200形は、電動機出力が小さいこことから早期の淘汰対象となり、1951年10月に203が廃車となったのを皮切りに、1953年3月までに全車が廃車あるいは車種変更され、国鉄形式は与えられなかった。このうち、201は1952年に救援車として客車に類別変更されナヤ16870形(16872。翌年の改番でナエ17100形(17122))となったほか、200と204は私鉄に払下げられている。

デ110形 [編集]
1924年(大正13年)と1926年(大正15年)に、自社松島工場で製造された両運転台式の制御電動車で、3両(デハ110 - 112)が存在した。これらのうち110は、国有化はるか以前の1928年(昭和3年)に三河鉄道へ譲渡され同社のデ200となり、末尾の112が2代目110に改番されている。

三河鉄道デ200は、後の合併により名古屋鉄道モ1100形(1101)となり、名鉄モ3700系電車走行機器を譲り廃車された。

車体は、デ100形、デ200形とほぼ同様の16m級木製であるが、窓配置は、1D151D151D1と扉間の窓が1枚多く、その分1枚当たりの幅が狭くなっている。電動機についてはデ100形と同様の78.3kW×4であるが、台車は汽車製造製のKS-30Lであった。

買収後は、伊那松島に配置され飯田線北部で使用されたが、同区間の昇圧に伴って富山港線に移り、1953年の車両形式称号規程改正時点では110が両運転台の制御電動車、111は電装解除されて片運転台の制御車となっていた。そのため、110がモハ1910形(1910)、111がクハ5920形(5920)となっている。1910は1950年(昭和30年)3月に廃車解体、5920は1954年(昭和29年)3月に廃車、北陸鉄道に譲渡されている。

デ120形 [編集]
1927年(昭和2年)に、汽車製造東京支店で製造された両運転台式の制御電動車で、5両(デハ120 - 124)が製造された。車体デザインや走行機器類はデ110形を踏襲するものの、車体を鋼製とした半鋼製車である。

買収後は伊那松島に配置され、僚車とともに飯田線北部で使用されたが、1952年に福塩線用として府中町電車区に転属。さらに1953年には富山港線に転用された。同年6月に実施された車両形式称号規程改正では、モハ1920形(1920 - 1924)に改番されたが、1920 - 1923は1956年3月、1924は1955年3月に廃車され、全車が私鉄に払下げられた。

附随客車 [編集]

サ100形 [編集]
1924年(大正13年)に日本車輌製造東京支店で3両が製造された木製付随車で、製造当初は1 - 3と称したが、第2次大改番によりサ100形(100 - 102)となった。二等三等郵便荷物合造車で、記号は「サロハユニフ」という非常に長いものであった。1937年(昭和12年)9月1日付けで二等車が廃止されたため、記号は「サハユニフ」に変更され、この状態で1943年の買収を迎えた。この時点での車体の特徴を次に記す。

車体は全長16m級のモニタールーフを持つ木造車で、車体の半分が郵便室(荷重3t)、その次位に荷物室(荷重1t)、後位側は三等室で定員は32人(うち座席16人)である。便所は、前位側と後位側の車端部に2か所設けられており、三等室は便所の位置の関係で左右で扉の位置がオフセットされている。台車は釣合梁式のTR10、自重は25tである。

1937年の三信鉄道全通により豊橋 - 辰野間の直通運転が開始されたのに伴い、本形式は直通運転用に使用された[5]。国有化後は豊橋機関区に転属し、引き続き直通運転用に使用されたが、この間の1945年(昭和20年)2月に、100が土砂崩れにより宇連川に転落して廃車となっている。

本形式は、飯田線北部の1500V昇圧にともなって営業運転から退き、1952年(昭和27年)に救援車に改造され、妻面に観音開き式の扉が設けられた。翌年6月の改番では、サエ9320形(9320, 9321)に改称され、9320は中部天竜機関支区、9321は豊橋機関区の配置となった。豊橋の9321はクエ28形の就役に伴って1964年(昭和39年)に廃車となったが、中部天竜の9320はさらに長命を保ち、1979年(昭和54年)まで在籍して、国鉄最後の木造電車となった。

サ110形 [編集]
1926年(大正15年)自社松島工場製のサハフ312を、1937年に三等郵便荷物合造車「サハユニフ」に改造したもので、サ100形とともに直通運転用に使用された。サ100形と同様の経過をたどって1953年に救援車に改造され、同年6月の改番ではサエ9330形(9330)となったが、1959年(昭和34年)12月の番号整理によりサエ9320形に編入され、9322と改番された。本車は、伊那松島機関区の救援車として使用されていたが、1971年(昭和46年)に後継のクモエ21形が配置されたのに伴い廃車解体された。

サ200形、サ300形→サ210形・サ220形 [編集]
1920年日本車輌製造東京支店で製造された、車体長14m級の600V電化時代の木製電動車(ホ1 - 3)を昇圧後に電装解除により付随車化したものである。1926年の第2次大改番により、番号順にサ300形(サハフ300, 301)、サ200形(サロハフ200)に改められた。その後1929年(昭和4年)に全車が再改造され、上記の順番でサ220形(サハニフ220)、サ210形(サハニフ210)、サ200形(サハニフ200)となっている。

国有化後は、従来同様伊那松島機関区の配置で、後付付随車として運用された。サハニフ200は1951年、サハニフ210は1950年、サハニフ220は1952年に廃車解体されており、国鉄形式は与えられていない。

サ310形 [編集]
1926年汽車製造東京支店製の三等付随車で、車体長16m級の木造車である。3両(サハフ310 - 312)が製造されたが、1937年に312が三等郵便荷物合造車(サハユニフ110)に改造され、1943年の国有化時点では2両(サハフ310, 311)が在籍していた。その後も伊那松島機関区に配置されていたが、1952年に310は救援車に改造のうえ客車に類別変更されナヤ16870と改番、311も同年解体されたが、旧南海鉄道(阪和電気鉄道)モタ307の廃車体をクハ752として復籍させる際の名義上の改造種車となっている。

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2009年03月08日

ふかひれ

鱶鰭(ふかひれ)は、大型のサメのひれ(主に尾びれや背びれ部分)を乾燥させた食材である。
潮州料理など、中華料理の高級食材として利用される。ほぐしたものをスープの具として使うことが多いが、ふかひれの形のままじっくりと煮込むものもある。ジンベエザメ、ウバザメのものが最も高級とされ、アオザメ、イタチザメなどのものも高級である。一般的には、ヨシキリザメのものが使用されることが多い。

日本は世界有数のふかひれ生産国であり、江戸時代にはナマコ・アワビと共に中国(明、清)へ輸出されていたが、近年ではシンガポールやインドネシアの生産量の方が高い。日本の中では気仙沼の水揚げが最も多いが、この多くはマグロ延縄漁業の際に釣れたサメからとられたものである。日本の気仙沼産が有名で且つ高級品として扱われるのは、加工技術(乾燥など)が優れているためと言われる。

中国でフカヒレが食べられたのは明の時代と言われている。

乾燥品の製法
生のものは皮付きで、しばらく置くとアンモニア臭がするようになり、グロテスクでさえある。これをゆでて、皮をとり、油脂分も落として残る軟骨を天日干しにして、乾燥品が作られる。皮付きのまま乾燥にするものもある。

調理法
調理する際は、まずネギやショウガとともに茹で、さらに蒸した上で皮を剥き、水にさらす。このように下処理をしてから上手に煮込むと臭みが消え、軟骨魚特有の柔らかなゼラチン質の食感が楽しめる珍味となる。

魚類
魚翅(ユイチー yúchì):中国でのふかひれの総称。また、一本一本ばらばらにほぐしたひれ。基本的にスープとして提供される。主に胸びれが使われる。排翅と比べると値段は安い。
排翅(パイチー páichì):扇のような形をしているひれ。基本的に姿煮として提供される。主に背びれと尾びれが使われる。大きさ・形・厚さで値段が大きく変わる。

人工ふかひれ
数百円程度の廉価で販売されている「ふかひれ」は、エイのヒレで代用したものや、春雨や湯葉を使って本物に似せた「人工ふかひれ」である。本場中国を謳う料理店の出す「姿煮」にも人工ふかひれが使用されているケースがある。
きたみびお 浮草ぐらし ウェッジ ビーピー ツベル タイマー ビヤマハギ フロマ シケイン フリーラジ マスタ わかくさ ハイネッ パラ プロテス ロンネット ソリテー マンス スライド バヌア マート びばい フレアスカ ドトイ ラッシュ ライム ワインバ ナポリタン インゴット リッピン ウェル バター ドグマ とうりゅう スロット モラリ トレジャ フラッシ ヒマワ チャロ ムック テスト パネラー ダース サイト ジャッジ エタイ マッピング 露の契 フェージュ

中国・山東省では、工業用にかわをホルムアルデヒドで浸した偽ふかひれが摘発されたことがある。

サメの乱獲によるふかひれの供給不足や中国におけるふかひれの需要の増加などのため、天然ふかひれは価格が高騰しており、人工ふかひれの需要が日本でも本場中国でも高まっている。日本では豚のゼラチンなどを原料とした天然物に味や食感が非常に近い人工ふかひれの国内の業者による製造販売も行なわれている。

2009年02月20日

ロスト・ユニバース

ロストシップ・ソードブレイカーに乗るトラブル・コントラクター(厄介ごと請負人)のケインとミリィが巨大企業ゲイザー・コンツェルンを隠れ蓑にした巨大犯罪組織ナイトメアと戦うスペースオペラ。
リーベ フラッ ザイル クチン セドラ タコメ ブラウ レット シスプ じゃくやく ラップワピ デリバリ ツワブキ フリーダム ソート ナビタイア メンマ タルト ガネット スニファー オート スコア えーびー ちょうい たんし ニヒル モップ 国内チュ ティーン ギャレー 幻のユウ ブイゾ シールド パサー タジン ダウンライト コスル ナポリ ヒモパン ジューシー ショー ポニカ いーん リターン パリー トライア バスー 山菜サーチ ヴェリ ローズ

この原作については、ライトノベルの制約下に於けるアクションタイプのスペースオペラとしては1990年代後半の作品の内でも佳作的存在として挙げられる事が多く、現在でも比較的評価が高い。原作、アニメ、漫画それぞれで登場人物等の設定や物語の終盤部分が異なっている。

1998年には同タイトルでテレビアニメ化されている。スポンサーに角川書店とキングレコード、制作会社がイージー・フイルム、監督に渡部高志、キャラクターデザインが宮田奈保美、声優に林原めぐみと、1995年より放映されて好評を得た同じ神坂一原作のテレビアニメ『スレイヤーズ』シリーズと同様の布陣であり、その成功の延長線上にある企画だった。セルアニメーションとCGアニメーションを場面に応じて使い分ける方法をとった。『スレイヤーズNEXT』『スレイヤーズTRY』など、オープニング・エンディングのみにCGを使っていたというテレビアニメの例は本作以前にもあるが、作品本編内で使用した例としては最も初期のものでもあり、画期的だった。CGパートはDoGAが手がけた。

ケイン・ブルーリバー
声:保志総一朗
祖母から譲り受けたロスト・シップ「ソードブレイカー」を駆る腕利きのトラブルコントラクター。茶髪で女顔の美形。何事にも前向き(?)で、計画よりまず行動、というタイプ。口より先に手が出る。自らのポリシーから常に黒いマントを羽織っており、目立つ事この上ない。本人はこれをかっこいいと思っているらしく、馬鹿にされると怒り、たいていの場合殴り合いに発展する。これまた自らの美学から、精神力をエネルギーにする剣「サイ・ブレード」を好んで使用する。増幅器なしでも一瞬だけサイ・ブレードの刃を具現化できる。刃物マニアで切り裂きジャックが心の師匠らしい。「サイ・ブレード」の意匠は原作小説・漫画版とアニメ版ではかなり異なる。小説・漫画版では「不格好な柄」の形をしており折り曲げて「エネルギーガン」的な扱いも可能。また増幅器と柄は有線接続。アニメ版ではライトソードやビームサーベルのような柄の形をしており、ケーブルは無い。
アニメージュで掲載されたプロフィールによると出身地は惑星ブラウマー、誕生日は5月30日。
ミレニアム・フェリア・ノクターン
声:柊美冬(現・石村知子)
通称ミリィ。金髪をショートカットにしている女性。元は探偵社に勤めていたが仕事に失敗したためクビになり、ひょんなことからソード・ブレイカーの乗組員となる。射撃の名手で麻痺銃を武器にしている。ソード・ブレイカーの砲撃担当。また料理の腕はプロ級だが、何故か料理をする度キッチンを壊滅状態にしてしまう。ただしアニメと原作では微妙に違い、アニメはキッチンを爆破しながら料理をするのに対し、原作では、圧力鍋を爆発させたピザ、計量カップを溶かしたハンバーグステーキ、フライパンに穴を開けたグラタン等、意味不明の物を壊しながら料理する。趣味は釣りで、「海と言えば磯釣り」というほど。本名はミレニアム=フェリア=スターゲイザー。スターゲイザーの実の孫である。
アニメ版ではなぜか「宇宙一」を連呼し、性格も若干自分勝手なところが多々あった。
アニメージュで掲載されたプロフィールによると出身地は惑星ルゾルデ、誕生日は2月24日とのこと。
キャナル・ヴォルフィード
声:林原めぐみ
銀色(アニメでは緑色)の髪をもつ美少女の姿をしているがそれは立体映像であり、本体は、ケインの宇宙船ソード・ブレイカーの中枢制御システム。原作ではただの映像で船外活動も不可だが、アニメでは物を触る事ができ船外活動も可能。大昔に失われた技術で造られた遺失宇宙船(ロスト・シップ)であり、その性能は現行の宇宙船をはるかに凌ぐ。だが、「おしゃれのため」に役に立たない武装を買ったり、ネットに流れるトンデモ系の情報収集が趣味だったりと、性格はケインの祖母アリシアの影響もあってかかなり人間的でやたらと凝り性。酸素系などのライフラインを含むソード・ブレイカーの操作の全てを握っているため、こと自船内にいる限りその立場は一番強い。
原作小説ではキャナルという名前は、魔王自身の武器「烈光の剣」を用いて魔王を倒した天使の名前から取ったとされ、立体映像のモデルは開発関係者の映像記録データを元にしている。
また、当時人気絶頂で主題歌も担当した林原めぐみが声を当てていた事もあり、アニメでは原作以上に目立っているという声も少なくない。
原作小説のイラストでは「巫女風」のデザインで、作品初期頃(1-3巻)と後期(4-5巻、及び1-3巻のリメイク版)でも違いあり。アニメと漫画では「メイド風」に変更された。船体のデザインも初期は双頭ではなかった。
レイル・フレイマー
声:緑川光
ユニバーサルガーディアン(宇宙警察)の若きエリート。黒髪の美形。階級は警部。専用の宇宙船「青い聖騎士(ブルー・パラディン)」を指揮する。ケインとは腐れ縁である。女性に弱い。実は「ナイトメア」と通じており、裏で捜査の情報を流してもいる。アニメ、漫画、原作小説ではそれぞれ人物描写や物語の中で果たした役割について大きな差異がある。
作者曰く、「アニメ版がなかったらあっさり死んでたかも」とのこと。
ニーナ・メルキオーレ
声:鈴木真仁
アニメと漫画版のみに登場する。金髪をポニーテールにしたそばかすがかわいい女の子。ユニバーサルガーディアンに勤める警官。レイルの助手(秘書)をしている。アニメではケイン達と共にナイトメアと闘った。アニメ版のみ、触った機械はショートを起こす設定になっている。
カーリー
声:根谷美智子
アニメオリジナルキャラクター。25歳。黒髪の美人でナイトメア所属の電磁鞭(電流を流した金属製の鞭)を使う凄腕の暗殺者。ケインと一度戦いそれ以来彼を倒す事を目的としている。
紅蓮翁
声:茶風林
アニメオリジナルキャラクター。白髪の老人。ケインとソードブレイカーを何度も葬ろうとするがその度に失敗。その為最終的にネザードの餌にされて命を落とす。
アルバート=ヴァン=スターゲイザー
声:中田譲治
犯罪結社「ナイトメア」の総帥。人間離れした存在であり、配下の者から畏敬されている。
闇を撒く者
声:松本保典
謎の男。サイ・ブレードの名手。増幅器なしでもサイ・ブレードの刃を具現化できる。
アリシア・ブルーリバー
声:さとうあい
ケインの祖母で、ソードブレイカーの先代の所有者。故人。ケイン以外には「マリア」という偽名を名乗る。本名はアリシア=ツォン=スターゲイザー。スターゲイザーの実の妹であり、つまりケインとミリィは再従兄妹という事になる。その人となりは作中では語られていないが、彼女こそがキャナルが最初に接触した人類であり、キャナルの「人格」のかなりの部分は彼女の影響によるものと推測される。
ジェイ=マーキュリー
ナイトメアナンバー2。表向きはゲイザー・コンツェルン常務。組織のことならスターゲイザー以上に詳しいが、遺失宇宙船のことは知らない。

主な登場兵器
※原作小説、漫画、アニメで若干描写が異なる。

210m級宇宙船ソードブレイカー(195m級戦闘封印艦(ソードブレイカー)ヴォルフィード)
先史文明によって製造された遺失宇宙船(ロスト・シップ)。伝説の魔王“闇を撒くもの”(ダークスター)と対立する神である、漆黒の竜神(ナイト・ドラゴン)ヴォルフィードにちなんで命名された。人間の「希望」をエネルギー源とするシステムを有し、デュグラディグドゥらのエネルギーを相殺して機能停止に追い込み「封印」する事ができるが、その際引き替えに自らも機能停止する。暴走したデュグラディグドゥに差し向ける為に建造されたが、発進直前に対立陣営の攻撃で基地を破壊され、瓦礫の下敷きとなる。自己進化による試行錯誤を重ねてようやく脱出した時には、既に人類は滅亡した後だったが、デュグラディグドゥの封印に成功、その後に発生し進化した現在の人類によって発掘されるまで、共に眠りについていた。
キャナルが趣味で購入したバルカン砲などの現代技術による通常武装も装備されているが、本来の武装はリープ・レールガン(弾丸が転移装置になっており、命中した箇所の周囲、半径50メートルをえぐり取って虚空へ放逐する)、サイ・ブラスター、サイ・バリアを利用した高出力プラズマ・ブラスト。リープ・レールガンの弾丸は現在の技術では製造不可能で、ソードブレイカー内の自動修復システムを使用して生産する。1発の生産にフル稼働で約1時間かかる。
300m級攻撃艦ガルヴェイラ
デュグラディグドゥの護衛無人艦の一隻。魔王の武器“颶風弓”にちなんで命名された。特に特徴を与えられていない機体だが、それゆえ火力、防御力、機動性の全てが5機の平均として設定されたバランスの良い機体と推測される。
300m級機動殲滅艦ネザード
声:梁田清之
デュグラディグドゥの護衛無人艦の一隻。魔王の武器“毒牙爪”にちなんで命名された。主な武装はニードルレーザー。機動性(巡航能力)が高いと推測される。
410m級重砲撃艦ゴルンノヴァ
声:曽我部和恭
デュグラディグドゥの護衛無人艦の一隻。魔王の武器“烈光の剣”(これが「スレイヤーズ」の「光の剣」と同じものだとされている)にちなんで命名された。多数のビーム砲を装備し、空間を歪めての「空間レンズ」で収束して威力を高めたり、拡散させて広範囲を攻撃したりする事が可能。また、弾道が歪曲されてしまうため、リープ・レールガン以外の攻撃手段では有効打を与える事は困難。ただし、艦首の「目」付近だけは外部の様子を「見る」ために歪曲の対象外であり、ここが弱点となっている。
170m級機動駆逐艦ラグド・メゼギス
声:掛川裕彦
デュグラディグドゥの護衛無人艦の一隻。魔王の武器“瞬撃槍”にちなんで命名された。慣性中和システムの働きでロストシップの常識でもありえないほどの急激な機動が可能。その替わり武装は貧弱。ケインいわく「二等辺三角形」。アニメでは、プラズマ・ブラスト顔負けの超兵器・グラビトン砲を搭載したことにより火力が大幅に強化され、更にカーリーの命令に対して「かしこまりました、女王様」と復唱するなど、性格が非常に人間臭いものになっている。
550m級超長距離砲撃艦ボーディガー
デュグラディグドゥの護衛無人艦の一隻。魔王の武器“破神槌”にちなんで命名された。照準チップによる補正によって、超長距離での精密砲撃が可能。本来は一度発射するとエネルギーチャージに時間がかかり、連続発射はできないが、ヘカトンケイルと接続してエネルギー供給を受ける事で連射が可能となっている。
20km級巨大戦艦ヘカトンケイル
犯罪結社「ナイトメア」の本拠地としてスターゲイザーが建造させた軌道ステーション。表向きはゲイザー・コンツェルンの試作実験工場という事になっている。6隻のロスト・シップの基地でもあり、ヘカトンケイル自体もロスト・シップの技術を使用して建造されているため、ゴルンノヴァの空間レンズによる攻撃と防御、ラグド・メゼギスの慣性中和による移動、強靭な外壁など、絶大な戦闘力を誇る。また、デュグラディグドゥらと接続してエネルギーを供給する事で、ヴォルフィードの相殺・封印システムを無効化できる。デュグラディグドゥらとはエネルギーが違うため相殺できない。
生体殲滅艦(ダークスター)デュグラディグドゥ
古の魔王にちなんで命名された。あらゆる生命体の活動を停止させる「システム・ダークスター」を搭載している。これが発動すると乗組員であっても無差別に抹殺してしまう為、無人艦とされた。長期の戦闘行動を可能とするため、人間の意識、それも戦場で収集しやすい怒り、憎しみ、そして何より「恐怖」をエネルギーとするシステムも搭載された。本体の「システム・ダークスター」以外の戦闘力は無きに等しく、その為5隻の護衛艦が合わせて建造された。実験航海に出た直後に異常が生じ、発進してきた基地を壊滅させたのを手始めに、自らを創造した先史文明の人類を絶滅に追い込んだ。
アントリュ
コミックス版「ロスト・ユニバースすぺしゃる」に登場。

2009年02月04日

伊達氏(だてうじ/いだてうじ)は、鎌倉時代から江戸時代

伊達氏(だてうじ/いだてうじ)は、鎌倉時代から江戸時代まで東北地方南部(南東北)を本拠とした一族で、藤原氏の藤原北家山蔭流と称する。庶流として伊豫国、但馬国、駿河国にてそれぞれ分流がある。通し字は「宗」
陣取り いなか ストメ ワイス さんぼんぎ アント システイン キーホ ワッシャ ネゴシ メモワ パフェ トーキング マラニッ 筆柿 キーノ テレコズ マヨラ プライ ドアミラ リンクサデ ポート エコロジジー エバー ナフタ レポート エス スキトル オーピー マドラサ スパニ パウダー フィル 夏の稲妻 シグサ ツバル タンゼロ ラスバンド アウトカム 黒い塔 ブルンジ ピエール オーバ タリフ ミンス シェルカ スパラ ヌードル モノクロ ミーシー

伊達の名は陸奥国伊達郡(現福島県・中通り北部…伊達市、伊達郡、一部は福島市)に由来し、この地名は古代には「いだて」または「いだち」、中世以降は「いだて」と呼ばれた。伊達氏も本来は「いだて」であり、室町時代の延元4年(1339年)の文書に「いたてのかもんのすけ為景」、慶長18年(1613年)に支倉常長がローマ教皇に渡した伊達政宗の書簡に Idate Masamune とある。15世紀に「だて」という読み方が畿内で登場し、江戸時代を通じて「いだて」と「だて」が混用された。

鎌倉時代から室町時代まで
出自は常陸国伊佐郡、あるいは下野国中村城 と伝えられる。魚名流藤原山蔭の子孫である。鎌倉時代、源頼朝による奥州合戦に従軍し、石那坂の戦いで戦功を挙げた常陸入道念西が、頼朝より伊達郡の地を与えられ、中村に変わり伊達朝宗(ともむね)を名乗った。

但し一部には、藤原氏流出自は自称の域を出ないという意見もある。また、常陸入道念西が伊達朝宗であるというのも、年代や系図の照合によってそのように比定されているのであり、常陸入道念西と伊達朝宗が同一人物であるとする明確な記録があるわけではなく別人であるという説もある。[1][2]
鎌倉時代には陸奥・下野・常陸の他にも出雲、但馬、伊勢、駿河、備中、上野、出羽、越後などでも地頭職を得ており、各地に分流が派生している。

南北朝時代の伊達行宗(伊達行朝)の時代には、義良親王を奉じて奥州鎮定のために下向した北畠顕家に属し、行朝は結城宗広らとともに式評定衆となった。北条氏残党の中先代の乱では、連動して蜂起した北条方の与党を討った。1335年に顕家が足利尊氏討伐のために上京すると行宗も従い、足利方と戦う。興国年間には南朝方(後醍醐天皇方)として同族の伊佐氏とともに常陸国伊佐郡の伊佐城に拠り、北朝方(足利方)の高師冬等と戦う。南朝方は破れて伊佐城は落城、行朝は城から脱出した[3]。

尚、正中の変、元弘の変では分流(雲但伊達氏系)の三位房伊達遊雅(祐雅法師)が連座し処罰されている。また雲但伊達氏や駿河伊達氏は足利方であった事がこの時代の各史料に見て取れる。

行宗の子伊達宗遠は出羽国置賜郡を攻め、領主である長井氏を滅ぼして領有した。また、行宗か宗遠の代に幕府に降伏している。宗遠の子伊達政宗の時代に鎌倉公方足利満兼が領土の割譲を求めると、満兼や会津の蘆名満盛と争った。政宗は1399年から1402年にかけて3度鎌倉府方に反旗を翻している(伊達政宗の乱)。

伊達氏は一介の国人領主といえども、大国 陸奥国にあって有力な武家であった。そもそも、奥羽は鎌倉府の管轄ではあったが、幕府と鎌倉府の対立が次第に深まると伊達氏は幕府直属の京都扶持衆となり、1413年の応永の乱では鎌倉を牽制している(伊達持宗の乱とも)。また、京都扶持衆として直接将軍と結び付き、1438年の永享の乱では幕府より鎌倉公方の討伐命令をくだされているなど、南北朝時代に南朝方であった伊達氏は幕府との接近によって、その地位と勢力を高めていった。

1483年には伊達成宗が上洛し将軍足利義政、日野富子らに砂金、太刀、馬などを献じた。献上物の数は当時としては随一のものであったと伝わる。この時に奥州探題職を得たと言う説[4]もあるが定かではない。

室町戦国?安土桃山時代
伊達稙宗は陸奥守護職に補任し、奥州探題であった大崎氏の内紛を解決して、義宣を養子に入れて傘下に取り込み、出羽の最上氏も勢力圏に組み込むなど大きく飛躍した。 1536年には分国法の塵芥集を制定。その子 伊達晴宗は足利将軍家有力一門 斯波氏の流れをひく大崎氏歴代の職である奥州探題に補任されたが、一方で隠居の稙宗の専制に対する家臣団の反発が蓄積され、晴宗の弟である伊達実元の越後上杉氏に入嗣させることを画策することが引き金となり、入嗣を推進する稙宗派と反対する晴宗派の間で天文の乱が勃発。姻戚関係を結んだ諸大名を巻き込み、奥羽を二分する大乱に陥り衰退し居城を米沢に移した。勢力下に治めていた諸大名も再び自立を遂げた。

中央政界の権力闘争を契機として広がった戦国時代。関東はもとより奥羽は未だ幕府や鎌倉公方の旧権威は依然として絶大であった。 しかし、一方では中央政界から遠く辺境にあったが故に確保できた自立性の強さは伊達氏に台頭の機会を十分に与えたといえる。 歴代にわたり勢力と地位向上に努めてきたとはいえ一介の国人であった伊達氏が、京都扶持衆に列したのを契機に中央政界との緊密性を獲得し、陸奥国守護職補任、さらには室町幕府において足利一門にのみ許されてきた奥州探題職に補任、かつ足利一門屈指の名門で斯波氏の同族 大崎氏に庶子を入嗣として送り込み事実上の傘下に治めたことは、奥羽における室町時代の旧権威衰退と奥羽における伊達氏の覇権確立を予見させるには十分過ぎた。

1584年に当主になった17代・伊達政宗は強硬な領土拡張政策を進めた。国人間の重層的な姻戚関係により奥州国人すべて親族血縁の誼を通じていたため、領土紛争も互いの存亡をかける争いには発展しなかったが、政宗はそうした親族血縁や幕府の旧権威を良しとせず、伊達氏の勢力拡大を推し進め、足利一門の畠山氏嫡流の流れを汲む二本松氏を打倒し、蘆名氏や旧奥州探題・大崎氏と戦い、1589年には、会津守護を称して南奥州の覇者であった蘆名氏と雌雄を決し、これを滅ぼして伊達氏の領土は最大となった。

この間、室町幕府を打倒しこれにとってかわった織田信長の後継者たる地位を得た豊臣秀吉が関白となり、その権威を以って天下に惣無事令を発し、諸国の戦乱を禁じられ当初、政宗はその布令を無視して領土拡大を進めたが、1590年に秀吉が後北条氏を攻撃するのをみてこれに服属した。秀吉からは布令無視を詰問されたが、徳川家康らの周旋もあり窮地を脱し、奥州仕置で72万石を安堵され居城を米沢に戻す。その年に起きた葛西大崎一揆の戦後処理で翌年の1591年、秀吉に米沢などを更に没収され国替を命じられ、旧大崎葛西領など58万石の領主として岩出山城(現大崎市岩出山)に移った。

尚、秀吉の小田原攻めの頃、後北条氏の家臣に岩付城代として分流の伊達房実がおり、この子孫が旗本の伊達氏である。

江戸時代以降
伊達政宗は関ヶ原の戦いで徳川家康に味方し、その恩賞として62万石に加増された。後に仙台城を築いて岩出山城から移り、江戸時代を通じて国持大名の家格を維持し、仙台藩62万石の大藩として繁栄した。伊達宗家の当主は少将に任ぜられ、外様大名の中では別格の扱いを受け、将軍家から降嫁がある数少ない家のひとつとされた。江戸期を通じて、新田開発などにより実収入を増し、幕末には実高100万石余に及んだ。しかし、8代藩主斉村以降は30歳に達せず早死にする藩主が多く、一門からの養子でかろうじて無嗣改易を免れる状況が続き、これによる藩政の沈滞化が幕末の失敗につながった物と考えられる。

江戸時代には、大名家及び仙台藩士の他に旗本(駿河伊達氏系)、紀州藩士(駿河伊達氏系)、津山藩士(駿河伊達氏系)、秋田藩士(伊達盛重の系統)にも伊達氏が確認できる。

1614年、伊予国に政宗の長子秀宗を藩祖とする宇和島藩が創設された。

1657年宇和島藩初代藩主秀宗の五男・宗純が宇和島藩より3万石を分知され伊予吉田藩を立藩。

1660年綱宗が不行跡を幕府に咎められて逼塞した事を発端に寛文事件(伊達騒動)が起きている。

同年、政宗の十男・宗勝が仙台藩より3万石を分知され陸奥一関藩を立藩。(1671年騒動により改易断絶)

1695年綱村の二男・村和が仙台藩より3万石を分知され陸奥水沢藩を立藩。(1699年騒動により改易断絶)

戊辰戦争で仙台藩は会津藩に味方した。そのため朝敵として処分され、いったん領地を没収された後、28万石を与えられた。このため家臣を養いえず、直臣1万の家禄を削減するとともに、陪臣2万に暇を出して解雇した。また南部藩領となった旧領在住者に対しては、帰農を勧めた。家臣の中には北海道に集団で移住するものもあった。

華族令施行により、仙台の伊達宗基と宇和島の伊達宗徳はともに伯爵に叙された。また、吉田の伊達宗定は子爵に叙された。のち伊達宗徳は1891年侯爵に叙された。 1889年に仙台藩知事伊達宗敦、1892年に宇和島の伊達宗倫がそれぞれ分家し男爵を授爵。 また、北海道開拓の功績により伊達邦成、伊達正人(伊達邦直の孫)が1892年に男爵を授爵。 大陸浪人・馬賊として著名な伊達順之助は宗敦の6男である。

1912年、活動写真「伊達政宗」(M・パテー商会)公開。伊達氏を扱った初の映像作品となる。

昭和になり、伊達興宗亡き後夫人が伊達家の所有する山林を勝手に売却するなど横暴な振る舞いをして親族と争いごとに発展したとされ、世間で新伊達騒動と言われ注目された。

2001年、仙台市が仙台開府四百年祭の一事業として伊達交流サミットを開催した。伊達氏と関連を持つ23市町(仙台市除く)が参加した。

2007年 大條氏嫡流の伊達みきおがメンバーである、漫才コンビ・サンドウィッチマンがM-1グランプリを制した。

一族
伊達氏宗家
数字は当主継承順位。同名は文字を強調。本拠地も付記。

伊達朝宗 関東(常陸国伊佐城?及び下野国中村城?)→陸奥国伊達郡入り、高子館
伊達宗村 高子館
伊達義広 粟野大館(梁川城?)
伊達政依 梁川城?
伊達宗綱 梁川城?
伊達基宗 梁川城?
伊達行宗 梁川城?→霊山城→伊佐城→梁川城?
伊達宗遠 梁川城?
伊達政宗 高畠城→赤館
伊達氏宗 赤館
伊達持宗 大仏城(後の福島城)→梁川城
伊達成宗 梁川城
伊達尚宗 梁川城
伊達稙宗 梁川城→西山城→丸森城(隠居)
伊達晴宗 西山城→米沢城→杉目城(隠居)
伊達輝宗 米沢城→舘山城(隠居)
伊達政宗 米沢城→黒川城(後の会津若松城)→米沢城→岩出山城→仙台城→若林城(隠居)
伊達忠宗 仙台城
伊達綱宗 仙台城
伊達綱村 仙台城
伊達吉村 仙台城
伊達宗村 仙台城
伊達重村 仙台城
伊達斉村 仙台城
伊達周宗 仙台城
伊達斉宗 仙台城
伊達斉義 仙台城
伊達斉邦 仙台城
伊達慶邦 仙台城
伊達宗基 仙台城(明治維新、最後の仙台藩主)
伊達邦宗 ?
伊達興宗 ?
伊達貞宗 ?
伊達泰宗 ?

伊達氏族(藤原北家山蔭流・称伊達氏)
陸奥国における伊達氏の庶家は多いが、伊達氏として国人領主の地位を保った家系が、駿河国・但馬国にあった。

駿河伊達氏 - 伊達氏初代・伊達朝宗の次男 伊達為家にはじまる家系で、その七世・伊達資宗が足利尊氏に従い功績を挙げて、駿河国有度郡入野庄に所領を得、後に遠江国山名郡諸井郷を本拠とした。以来、駿河守護・今川氏の被官として存続する。
但馬国の伊達氏 - 三代当主伊達義広の流れで、鎌倉時代に同国の地頭職に補任されたことにより庶流が土着したものである。
宇和島伊達氏 - 初代仙台藩主伊達政宗の庶子長男、秀宗が初代。仙台から持参して宇和島で継承された家宝も多い。
以下、主な伊達氏族

仙台伊達氏(宗家)(大名、伯爵)
宇和島伊達氏(大名、侯爵)
吉田伊達氏(大名、宇和島伊達氏分家、子爵)
一関伊達氏(大名→断絶)
川崎伊達氏(大名→仙台藩一門)
亘理伊達氏(仙台藩一門、男爵)
岩出山伊達氏(仙台藩一門、男爵)
宮床伊達氏=田手氏(仙台藩一門)
伊達氏(仙台分家、男爵)
伊達氏(宇和島分家、男爵)
駿河伊達氏
出雲伊達氏
但馬伊達氏
大和田伊達氏(旗本)
秋田伊達氏(秋田藩)
紀州伊達氏(駿河伊達氏から分かれる)

派生氏族
殖野氏
塚目氏
飯坂氏
石田氏
矢部氏
伊達崎氏
田手氏
野山氏
寺本氏
寺木氏
寺元氏
徳江氏
得江氏
舟生氏
粟野氏
桑折氏
飯田氏
半田氏
八幡氏
瀬上氏
伊佐岡氏
大條氏
小梁川氏
塩森氏
古田氏
梁川氏
杉目氏
岡村氏
内谷氏
大立目氏
稗貫氏
根子氏
神山氏
葛氏
万城目氏
亀ケ森氏
駒牧氏
駒木氏
栃田氏
菅原氏
陸奥氏
島内氏
中村氏(新田氏,仁井田氏)
舟山氏

なお、上記派生氏族および家臣のうち、半田、飯坂、八幡(やわた)、梁川、徳江(得江:とくえ)、新田、仁井田(にいだ)、万城目、伊達崎(だんざき)、舟生(ふにゅう)、大枝、粟野、大立目、桑折、小梁川、大條、懸田(掛田:かけだ)、鬼庭(後に改名して茂庭)などは、いずれも旧陸奥国伊達郡(現伊達郡、伊達市、福島市)に現存する地名であり、瀬ノ上、杉目、中野も伊達郡の隣で同じ福島盆地の旧信夫郡(現福島市)北部に現存する地名。白石(しろいし)、柴田も伊達郡の近隣隣である刈田郡(現宮城県白石市)や柴田郡に現存する地名。伊達氏家臣団が、伊達氏の伊達郡、福島盆地支配時代に形成されていったことを伺わせる。

別系統の伊達氏
伊達姓を許された伊達家臣 - 江戸時代には留守氏(水沢伊達家)、白石氏(登米伊達家)、亘理氏(涌谷伊達家)、岩城氏(岩谷堂伊達家)が伊達姓を許されている[10]。また、それ以前には懸田氏も伊達姓を称している。
水沢伊達氏=留守氏(仙台藩一門)
涌谷伊達氏=亘理氏(仙台藩一門)
登米伊達氏=白石氏(仙台藩一門)
岩谷堂伊達氏=岩城氏(仙台藩一門)
大村藩士の伊達氏 - 斉藤(塩屋)松五郎の子五兵衛が伊達五兵衛政則と名乗り、大村藩勘定役に取り立てられ、子孫は伊達氏を称した。

系譜
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朝宗以前
凡例 太線は実子。(姓付は他氏への養子・または他氏を興す。)   
     藤原山蔭
      ┃
      中正
      ┃
      安親
      ┃
      為盛
      ┃
      定任
      ┃
     中村実宗
      ┃
      季孝
      ┃
      家周
      ┃
      光隆
      ┃
     伊達朝宗

朝宗以後
     朝宗
     ┣━━━┓
     為宗  宗村
     ┏━━━┫
     時綱  義広
     ┏━━━┫
     親長  政依    
         ┃
         宗綱
         ┃
         基宗
         ┃
         行宗
         ┃
         宗遠
     ┏━━━┫
     政宗  宗行
     ┃
     氏宗
     ┃
     持宗
     ┣━━━━┳━━━━━━┓
     成宗  小梁川盛宗  留守郡宗
     ┣━━━━┓
     尚宗  葛西宗清
     ┣━━━━┓
     稙宗  留守景宗
     ┣━━━━┳━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┳━━━━━┳━━━━━┳━━━━━┳━━━━━┓
     晴宗  大崎義宣                     実元   葛西晴清  亘理綱宗  梁川宗清  亘理元宗  
 ┏━━━╋━━━━━┳━━━━━┳━━━━━┳━━━━━┓    ┃                 ┃     ┃     
留守政景 岩城親隆  輝宗   石川昭光   国分盛重 杉目直宗  成実                白石宗直   重宗   
 ┃    ┣━━━━┓                                   ┃     ┃     
宗利   政宗1  政道(小次郎)                             伊達宗貞   伊達定宗  
 ┃   ┏━━━┳━┻━┳━━━━━━━━━━━━━┳━━━┳━━━┳━━━┓              ┏━━━┫  
伊達宗直 秀宗  忠宗2  宗清            宗泰  宗高  宗実  宗勝             宗重  宗実  
 ┃   ┏━━━╋━━━┳━━━━━┳━━━┓   ┃       ┃   ┃              ┃
宗景  光宗  綱宗3 田村宗良   宗房  宗倫  宗敏      宗成  宗興             宗元
 ┏━━━━━━━╋━━━┳━━┓  ┃       ┣━━━┓   ┃   ┣━━━┳━━━┓  ┏━━━┫
村和       宗贇  綱村4 村直 吉村5      敏親  実氏  基実 千之助  右近  千勝 村元  村泰
 ┃     ┏━━━━━┳━━━━━┫           ┃             ┏━━━━┫   ┃
村詮     宗村6   田村村隆  村良          村成            村定   村景  村輯 
 ┏━━━┳━┻━━━━━┓ ┣━━━┓       ┃         ┏━━━┫    ┃   ┃
村倫   重村7     堀田正敦  田村村資 宗充      村実        村胤  村盛   村利  村通
 │   ┃ ┃   ┃       ┣━━━┓              ┃   ┃
村常   斉村8            斉義11 斉邦12     村純  村好              村儀  村則
 ┃   ┣━━━┓         ┃           ┃              ┏━━━┫   ┃ 
村清   周宗9  斉宗10       慶邦13         村氏             村福  村善  宗秩  
 ┃                 ┣━━━┓       ┃              ┃       ┃
義基                 宗基14  邦宗      宗賀             宗衡      義監                
 ┃                     ┃       ┃              ┣━━━┓   ┣━━━┓
邦隆                     興宗      宗恒              邦命  邦寧   邦直  邦成
 ┃                     ┃       ┃                      
胤元                     貞宗      邦実              
                       ┃
                       泰宗

伊予宇和島藩・吉田藩系
   1 = 宇和島藩歴代、?= 吉田藩歴代      *は同一人物


                             政宗
         ┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┫
         秀宗1                  忠宗
 ┏━━━┳━━━╋━━━┳━━━┳━━━┓       ┃
宗実  宗時  宗利2 桑折宗臣 宗純? 宗職      綱宗
         |       ┃   ┃       ┃ 
        *宗贇3      宗保? 村豊?    *宗贇
     ┏━━━╋━━━┓   ┏━━━╋━━━┓
     宗相  村年4 田村村顕 村澄  村信?上杉義枝
         ┣━━━┓       ┃ 
         村候5 青木一貫     村賢?
         ┣━━━┓       ┣━━━┓
         村寿6 山口直清     村高  村芳?
     ┏━━━┫   ┃
     宗翰? 宗紀7 山口直勝
         ┃   ┣━━━━━━━┳━━━━━━━┓
         宗徳9 山口直信    伊達宗城8    伊達宗孝?
             ┃       ┣━━━┳━━━┳━━━┓
            伊達宗敬?   真田幸民 宗敦 奥平昌邁 宗倫
             ┃           ┃
             宗定          順之助
             ┃
             宗起

各系図による初期系図の差異
『伊達正統世次考』『寛政重修諸家譜』『永禄伊達系図』『福島県史』『福島市史』
伊達氏初代も常陸入道念西も朝宗とし、二代を為重=宗村としている。

『寛永諸家系図伝(寛永諸家譜)』『南豫史』
伊達氏初代は朝宗とし常陸入道念西は宗村している。

『伊佐早本系図』
伊達氏初代も常陸入道念西も宗村とし、二代を義広としている。

『駿河伊達文書』[11]『藩翰譜』
伊達氏初代も常陸入道念西も宗村とし、二代は資宗=義広とし、三代に時綱を挙げる。

『雲但伊達家系図』[12]
伊達初代も常陸入道念西も為宗(念西の長子も為宗となってるので誤記か?)とし、時綱・義広の兄弟を念西の子とする。

『藤氏飯田系譜』
伊達初代も常陸入道念西も宗村とし、宗村の前名を頼宗とする。また、宗村を中村常陸二郎としている。

「当午山満勝寺の比丘知恩の文」
常陸入道念西を朝宗としているが、有宗が早世したから宗村が襲封したとある

『会津史』(巻之二・第三篇伊達氏の項)
朝宗と宗村は従兄弟の関係で、朝宗の嗣子有宗が早世したので宗村が継いだとある。

「中村城、中村神社の伝承」
伊達氏初代も常陸入道念西も宗村とし、朝宗と宗村は親子で、中村氏は朝宗の次男の朝定が継いだとある。

「小林清治作成」
伊達初代も常陸入道念西も宗村とし、二代は為重、三代はその子義広とする。

主要家臣
伊達実元
留守政景 
片倉景綱 
中野宗時 
鬼庭綱元 
伊達成実
鬼庭良直
遠藤基信
片倉重長
桑折貞長
屋代景頼
白石宗実
支倉常長
原田宗時
桜田元親
後藤信康
懸田俊宗
小梁川宗朝
小梁川宗秀
小梁川盛宗
牧野久仲
石川昭光
留守宗利
三沢宗直
白川宗広
原田宗資
原田宗輔
伊達宗重
茂庭定元
柴田意朝
古内義如
伊達宗房
伊達邦直
伊達邦成
伊達邦寧
片倉景範
山岡重
田辺希績
中村義貞
舟山政義

支配城
伊達宗家居城
高子館(福島県伊達市保原町上保原)
粟野大館(福島県伊達市梁川町)(梁川城の別名とする説もある)
梁川城(福島県伊達市梁川町鶴ケ岡1)(別名鶴ヶ城)
高畠城(山形県東置賜郡高畠町)
赤館(福島県伊達郡桑折町)[26]
大仏城(福島県福島市)(別名杉妻(すぎのめ)城または杉目城、後の福島城)
西山城(福島県伊達郡桑折町)
米沢城(山形県米沢市)
黒川城(福島県会津若松市追手町)(後の若松城、若松城になってからの別名を鶴ヶ城)
岩出山城(宮城県大崎市)
仙台城(宮城県仙台市青葉区)
その他
伊佐城(茨城県筑西市中館) -伊佐氏の居城、藤原実宗(伊達氏の遠祖)が築城か。南北朝時代には伊達行宗(伊達行朝)が拠り南朝の拠点とした
中村城(栃木県真岡市) - 藤原朝宗(伊達朝宗)が築城、以降は中村氏の居城
霊山城(福島県伊達市霊山町) - 伊達行宗(伊達行朝)の本拠→陸奥国府
石母田城(福島県伊達郡国見町) - 伊達稙宗の一時的な居城
大枝城(福島県伊達市)(五十沢(いさざわ)城と同一か?) - 伊達氏支配時代には家臣の大枝氏が居城とした。伊達郡が伊達政宗から上杉景勝の支配に変わった後の1600年の伊達氏と上杉氏の戦では、梁川城を攻めるために伊達政宗が大枝城に布陣した。阿武隈川を挟んで梁川城の対岸にある(現在の梁川大橋近く)。
懸田城(福島県伊達市霊山町) - 伊達稙宗の一時的な居城
丸森城(宮城県伊具郡丸森町) - 伊達稙宗の晩年の居城
大森城(福島県福島市) - 伊達実元など特に有力な家臣が居城とした。現在は城址公園が整備されており、史跡発掘も多い。
舘山城(山形県米沢市舘山町) - 伊達輝宗の晩年の居城
小浜城(福島県二本松市) - 伊達政宗の一時的な居城
若林城(宮城県仙台市若林区) - 伊達政宗の晩年の居城
宇和島城(愛媛県宇和島市丸の内) - 宇和島藩
白石城(宮城県白石市) - 仙台藩支城、片倉氏居城

家紋
竪三つ引両 朝宗が奥州藤原氏討伐の際に源頼朝より拝領。昭和8年9月5日に制定された仙台市の紋章のモデル。
竹に雀(仙台笹) 上杉定実より養子縁組の引き出物として贈られたものを変形したもの。伊達泰宗が商標登録した。(家によって葉や節の数が違う。)
雪に薄 伊達氏独自の紋で輝宗、政宗が使用。
十六葉菊 政宗が豊臣秀吉より拝領(天皇より下賜されたとの説もある)
五七桐 政宗が豊臣秀吉より拝領
九曜 政宗の時より使用
鴛鴦の丸 政宗が近衛家より拝領
牡丹 綱村が近衛家(関白)より拝領
蟹牡丹 吉村が牡丹紋を変形

『伊達氏治家記録』
伊達氏の正史。全529巻578冊。
『伊達世臣家譜』、『伊達世臣家譜続編』、『伊達世臣家譜略記』
『仙台藩家臣録』、『元禄補遺仙台藩家臣録』
『伊達家史叢談』
『成実記』
『余目旧記』
^ 太田亮は「山蔭の裔とする事については、何等確実徴証あるなく、且つ世数長きに失す」と指摘し「桓武平氏常陸大掾平維幹の子為賢の末」説を挙げている。
^ 新井白石は元禄15年(1702年)成立の『藩翰譜』で『伊達正統世次考』の示す系図を疑っており、常陸入道念西は朝宗の子、宗村であるとの説をとっている。
^ 茨城県指定史跡の伊佐城跡(茨城県筑西市中館)に行朝の供養塔あり。
^ 『駿河伊達家文書』による
^ 田手氏に改姓
^ 明治期に大條道徳(伊達道徳)が伊達氏に復姓。サンドウィッチマンの伊達みきおはこの系統
^ 明治期に小梁川盛之(伊達邦盛)が伊達氏に復姓。
^ 中条氏末裔との説もある。
^ 同族ではあるが派生氏族ではなく本家筋。家格は一家。伊達氏本家筋の中村氏が、南北朝の動乱で本拠地の常陸国伊佐郡伊佐城を失い、同族である伊達氏を頼って伊達稙宗の家臣になった。ただし、清和源氏新田氏系で仁井田氏とも名乗ったという伝承もあり、詳細は不明。他に、伊達氏の連枝に中村姓を与えた例があった。
^ 留守氏、亘理氏、岩城氏は明治期に復姓している。
^ 参考文献:『駿河伊達家文書 京都大学文学部・博物館の古文書』
^ 参考文献:『大日本古文書 家わけ第三 伊達家文書之一』
^ 伊達稙宗の娘婿で天文の大乱では稙宗方。
^ 元亀の変で討ち死に。
^ 通称三沢信濃、一門十一席三沢家の祖で伊達綱村の伯父。
^ 白河結城氏の末で、一門十席白川家の祖。伊達綱村の乳兄弟にあたる。
^ 伊達忠宗の臨終に際し伊達綱宗擁立を推進。伊達騒動では反兵部派として奔走した。
^ 通称柴田外記、酒井雅楽頭忠清邸における原田甲斐刃傷沙汰に於いて殺害された。
^ 通称古内志摩、酒井雅楽頭忠清邸における原田甲斐刃傷沙汰に於いて怪我をするも生証人となった。
^ 一門水沢伊達家当主で戊辰戦争時には白河口に藩主名代として出陣した。
^ 北海道開拓の功により男爵を授爵
^ 葛西大崎一揆討伐に功あり、文禄の役では釜山で若武者(女性)を生け捕り妻とした。
^ 『伊達世臣家譜』の編纂を行った。
^ 通称中村日向、周宗卒去時の改易の危機を救った。
^ 出自は安倍氏、後に奥州藤原氏一門。片倉景綱亡き後の腹心となり、徳川家光の教育役となるように井伊直孝と共に説得。政宗はお墨付きよりも、長い付き合いの政義の言葉に従ったと言う。
^ 西山城と同一とする説が有力視されている。

2009年01月21日

弓術(きゅうじゅつ)は、弓を用いて矢で的を射る

弓術(きゅうじゅつ)は、弓を用いて矢で的を射る技術、武術、技法の事。以降は日本古来の武術、弓の中でも長弓に分類される和弓を用いて矢を射る日本の弓術のことを述べ、またこれを指して弓術とする。

日本の弓術は独自の発展を遂げ、ヨーロッパでの短弓を用いる技術体系を元に成立した現代スポーツのアーチェリー等とは全く異なり、日本独特の技法・文化・歴史を持つ。歴史的にはほぼ同義語的に弓術、射術、射芸等とも呼ばれていたが、現在では日本における伝統的な弓射文化を総称して「弓道」と呼称されており、「弓術」とは「弓道」へ改称する以前の古武術との意味合いで使われることが多い。ただし現在でも「弓術」を名乗り古流を厳格に維持する流派や、また古流を維持しながらも「弓道」とする流派・団体も有り、「弓道」「弓術」の境界は必ずしも明確にあるものではなく、思想・技術面から見ても明確に分類できるものではない。本項では現代武道としての弓道の母体となった、日本古来の弓射技術・文化を指して「弓術」とし、明治維新までを中軸とした一部弓道改称時点までの事情を記述する。

日本の弓術がいつ頃『術』として体系化されたか、また起源など弓矢の始まりが先史時代という事もあり明確な資料に乏しく定かにはなっていない。弥生時代には現在の和弓の原形(長尺・上長下短:後述)が現れ戦争に使用される等、何らかの射術技法があったと推察する事も可能だが、やはり詳細は不明である。礼射思想については大陸文化の『射禮 [1] 』を取り入れたものであり、大陸に習って国家としての基本を作り上げて行った飛鳥?奈良時代にその起源があると考えられる。飛鳥時代末期には文武天皇により『大射禄法 [2] 』が定められた辺りを皮切りに、朝廷の間で次第に弓射に関する礼射、礼法が整理され、また同時に技術も体系化、単なる射術から『弓術』として成立していったものと思われる。

一方で弓は武器として狩猟、戦場で用いられた事は勿論だが、人々の間で弓矢には霊妙な力があると信じられており、奈良時代には弓矢の奉納 [3] 、弓射神事が行われ、またそれらを起源とした祭りや神事が現在でも各地に残っている。平安時代には弓術流派が興り、各種流派にはそれぞれに独自の技術・教え・作法が存在した。戦場、祭礼行事、朝廷での故実・年中行事などに於いて弓術流派はそれぞれに活躍、発展していく。
ミネア あさひか ストレ マッチ アック 繊細 せいじゅ パワーサプ ランドロ ステイ ヒート メキシコ エグゼ べにあか センリョウ アーバン オーバ ロッキード やっこだこ パターン カピバラ アフガン サーボモ メリー 望郷の月 じゅご リンガ モルデ パトス キャンサド ティン デジタル ネクスト ノーショー コンファー ビオチ クレーション フィーマ カーラジオ バビア ナビノニ やまんば デーゲーム 世界の家 ブービー ドゥク サイダ ジャージー ベンダー フレーター

戦国時代中頃には鉄砲の登場により弓は戦場の一線から退くが、実戦から離れても弓術は武術としての地位は変わることなく、時代を経た泰平の江戸の世においても弓術は武士の表芸として、また心身鍛錬の道として依然人気は高かった。時代と共に技術、道具共に研鑽が重ねられ、また同時に諸流派それぞれに独自、或は相互に発展を遂げた。流派によっては実際の戦場を想定した稽古もあるなど、その稽古内容は今日に見る弓道よりも多彩である。ただし、江戸末期頃には弓術の基本的な技術体系は各種流派それぞれに通じる所もあり、特徴としての差異はあっても和弓を用いる根本的な弓射技術は各種流派とも大同小異である。今日の弓道に繋がる弓術は技術、道具共に江戸時代に大成したと言っても過言ではない。

明治維新後、幕府崩壊と共に武士階級の消滅、明治政府による近代化政策の煽りから武術は時代遅れとされ急激に衰退する。これを重く見た当時の武道・武術家有志により明治28年(1895年)大日本武徳会が結成され、弓道含め各武道の普及を図る。大正8年には弓術は弓道へと改称、武徳会は幾度か射法統一を試みるが普及せず、第二次世界大戦後に解散。その後当時を代表する弓道家らにより、射の過程をその推移に順応して8つの節に分けて説明される『射法八節』が定められ、弓道は現代武道として復活を遂げる。(戦後の弓道史は弓道#歴史を参照されたい。)